SLOW SLOW LIFE

Vol.1

演劇に生きた20代が、
今の私を支えている。

出雲市出身。中学の合唱部をきっかけに音楽の道へ進み、音楽大学で声楽を学ぶ。在学中に東京で演劇を始め、卒業後は劇団を立ち上げて各地の演劇祭に出演、のちに演出も手がける。29歳になる年に父が創業した有限会社アサヒ技研工業(出雲市枝大津町)に入社。営業・広報を担い、2024年3月に代表取締役社長に就任。3児の母。

出雲市の住宅会社、アサヒ技研工業の社長・朝日山裕子さん。「こんな田舎、出ていくぞ」と東京へ出て、20代は劇団を立ち上げ、各地の舞台を渡り歩きました。29歳になる年、それまで何も言わなかった父のひと言で家業を継ぐ道へ。未経験の建築業界で、演劇で養った「相手の立場になって考える力」を手がかりに家づくりと向き合っています。東京での挑戦、家業を継ぐという決断、そしてこれからの家づくりについて伺いました。

出雲から東京へ。合唱部から声楽、そして大学4年で始めた演劇

音楽はいまも続けている
音楽はいまも続けている

音楽は、小さい頃からやっていらしたのですか?

中学からですね。中学のときに合唱部を始めて、それがきっかけで音楽の方向に行ったんです。高校は最初、工業高校の見学にも行ったんですけど、合唱の推薦の話が来て、音楽に強い高校に進みました。そこから音楽大学へ、という流れです。

高校の頃は「こんな田舎、出ていくぞ」という感じで(笑)。大学は東京の1校だけ受けたんですよ。滑り止めもなくて。落ちても東京に行こうと思っていたので、もう絶対東京だと思って出ていきました。

大学では、どんな音楽を?

専攻は声楽で、オペラなどのクラシックを歌っていました。ただ、実はアニメも好きだったので、声優の専門学校にもダブルスクールで通っていたんです。そうやっていろいろなことをやりながら、大学4年生のときに同級生に誘われて演劇も始めました。もともと、芸能関係というか、タレントさんみたいになりたかったんですよね。

劇団を立ち上げ、各地の演劇祭へ。シビアな世界で養われた力

劇団時代の舞台。後半は役者だけでなく演出も手がけた
劇団時代の舞台。後半は役者だけでなく演出も手がけた
当時の劇団の仲間と
当時の劇団の仲間と

大学を卒業してからは、どんな日々でしたか?

卒業してすぐは、アルバイトをしながら劇団を始めたんです。劇団の活動と並行してオペラの研修所に通ったり、出雲や広島、岡山、京都、東京など、全国各地の演劇祭に出させてもらったりしていました。仕事にはならなかったですけど、演劇とバイトをしながらフラフラしていましたね。

その後、一度出雲に戻りました。拠点を出雲に置きつつ、劇団で東京にもアパートを借りて、行ったり来たりの生活です。普段は出雲のファミレスで昼も夜もアルバイト。東京で3カ月ほどの長い公演があるときは向こうでバイトをするなど、臨機応変にやっていました。大阪の少し大きな劇団の公演に出たときは、3〜4カ月ゲストハウスで暮らしたこともありましたね。

日々の安定のなさはありましたし、貯金もなかったので、精神的に不安定なところもありました。「いつまでこの生活をするんだろう」「このまま芸能の道でやっていけるんだろうか」と思ったこともあります。でも独身だったので、自由にやりたいことをやらせてもらって。若さと体力で乗り切っていたかな、という感じはありますね。

そこで得たものは、いまにつながっていますか?

結構つながっているなと思います。理不尽に負けない力というか。芸能の世界ってすごくシビアなので。こんなことを言ったらあれですけど、理不尽なことも含めて、本当に厳しい世界でした。ただ、やりがいはありましたね。

あとは、どんなに自分が頑張っても、お客さんに評価されなければ意味がない。そういう厳しさを身をもって知れたのも大きかったですね。今は経営者でもありますが、営業の仕事もしているので、「お客さんにどうしたら納得してもらえるか」をいつも考えています。相手の立場に立って考える力は、あの頃の経験で養われたのかなと、今になって思います。

30代を前に、家業を継ぐという道へ。やりきったから飛び込めた

創業者で一級建築士の父・朝日山正人会長と
創業者で一級建築士の父・朝日山正人会長と

家業を継ぐことになったきっかけを教えてください。

29歳になる年に、父に声をかけられたんです。その頃もまだ音楽や演劇を続けていて、アルバイトをしながら島根と東京を行ったり来たりしていたので、見かねたんでしょうね。「そろそろ腰を据えて、定職に就きなさい。行くところがなかったら、うちの会社に入りなさい」と言われました。といっても、そんなに厳しい言い方ではなかったんですけど。

うちの両親は基本的に何も言わない人たちで、それまで「会社に入れ」と言われたことも、「帰ってこい」と言われたことも一度もなかったんです。逆に、もし「帰ってこい」と言われていたら、たぶん帰っていなかったと思います。ただ、私は一人っ子なので、入るとしたら後継者になるんだろうな、というのは自分の中でなんとなく思っていました。

自宅のリビングで。29歳で家業に入った経緯を振り返る
自宅のリビングで。29歳で家業に入った経緯を振り返る

演劇から建築へ。抵抗はなかったですか?

音楽も演劇も自由にやらせてくれて、何をするにも応援してくれる両親だったので、自分が満足できるところまでやりきれたという思いがあったんです。演劇は後半、役者ではなく演出として携わるようになり、国際的なコンクールで賞もいただきました。演出では、ひとまず名前を残せたかなと。役者としても、好きな劇団でいい役をいただいて、それがひとつのピークだったので、それ以上の役が来ない限りはもういいかな、と思えたんです。やりきったからこそ、次は建築の世界で頑張ろうと、気持ちを切り替えられました。

もちろん最初は、東京やいろんな場所で舞台に立っている友達を見て、羨ましいなと思うこともありました。でも、20代後半で30代も目前だったので、そろそろ家庭を持ちたい、子どもが欲しいという気持ちも同じくらい強かったんです。結婚して、子どもを産んで、家を建てて。自然とそっちの方向にシフトしていった、という感じですかね。

未経験の業界に飛び込むことに不安は?

前情報がまったくなかったので、不安はあまりなかったですね。むしろ建築の業界を知らなかったからこそ、「面白そうだし、やってみよう」と飛び込めたんだと思います。大工になるわけではないので、最初は何をすればいいか分からないなりに、お客さんとの打ち合わせに同行したり、広報を担当したり。ホームページもちゃんとしたものがなかったので自分で作るなど、とりあえずできることから始めていきました。

演劇も、子どもが生まれるまでは続けていました。島根で演劇をやっている人は、みんな昼間は働いていて、仕事が終わった夜7時くらいから稽古をするんです。だから、昼に働いていても演劇は続けられるなと思って。昼は仕事、夜は稽古という生活で、みんなと一緒に舞台を作っていましたね。

出雲で家を建て、住んでいるからこそ、伝えられること

2023年に建てた自宅。「住んでいるからこそ分かることを伝えたい」
2023年に建てた自宅。「住んでいるからこそ分かることを伝えたい」

いま、家づくりの仕事をどう感じていますか?

家をつくるというのは金額も大きいですし、建てて終わりではなく、そこでご家族がずっと暮らしていくもの。本当に責任の重い仕事だと思っています。建てた後も「不具合はないですか」「住み心地はどうですか」と、ずっとお付き合いが続いていきますからね。プレッシャーもありますが、そのぶんやりがいのある、すごくいい仕事だなと思いながら向き合っています。

自分の家も、入社してから建てました。家を建てていない住宅屋って、信用できなくないですか? 説得力が違うじゃないですか! だから自分の家を建てていないのは、説得力が弱いなと思って。今はお客さんにも我が家に来てもらって、住んでいるからこそ分かることを、そのまま伝えています。

これから、どんなことをしていきたいですか?

東京に出てみて、地元のありがたさも、親のありがたさも分かったんです。だからこそ、一度は外に出てみることが大事だと感じています。子どもたちにも、一度は外の世界を見てほしいですね。私自身はこれからも出雲で、自分が住んで分かったことをお客さんに伝えながら、家づくりを続けていきたいと思っています。

玄関の上の天窓。朝日が入る
玄関の上の天窓。朝日が入る

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